MARC PANTHER

Globe-Trotters Journal

ピラティスを生活の一部に🌱No.4

皆様、ご機嫌いかがですか

 

桜の開花予想も発表されましたね

お花見などが待ち遠しい今日この頃です

一方で春の嵐も。。

地域により冷たい雨も多いかもしれません、どうかご自愛をくださいませ

 

 

さて、ご縁をいただき毎週日曜日に

「ピラティスを生活の一部に🌱」

を、テーマにブログを担当させていただいておりますピラティスインストラクターのNORIKOです

 

今回の第4回では

・ピラティスの歴史

について凝縮して

※私なりの解釈で

触れて行きたいと思います

 

ピラティスの考案者

ジョセフピラティス Joseph Hubertus Pilates 

は、1883年生まれのドイツ人です

そうです!ピラティスは人の名前なのです(前回もやんわりと触れましたが^^;)

ご存じでしたでしょうか、私は知らず最初驚いたのを覚えています

 

結論から先に伝えてしまいますが、ジョセフ自身はここまで世界中でピラティスが愛されるようになるとは知らずに亡くなります

80代で肺の病気で亡くなる迄の功績はNYのジョセフのスタジオにても華々しいものではあったようですが、ここまでの世界的な流布は死後10年以降のこと

きっと今頃お空から

遅いのおおおーー、、

と、笑っているかも知れません。時代と自分の考えのズレを指摘して嘆いていた等のエピソードも聞いた事があります

 

 

幼少期

お父様は体操選手兼金物職人、お母様は自然療法士で主婦との説があります。体操選手のお父様とは反し、ジョセフ自身は非常に病弱な子供時代だったようです。強くなりたいと願ったのでしょうか、お父様からのトレーニングや運動施設に通い身体を強くしてゆき、病を克服していったそうです

 

青年期

以後はレスリングや体操など様々な種目を学び、ボクシングは相当な腕前だったようで、ボクシング指導などに携わった経緯からボクシング指導を深めるごとく渡英します。しかしそれだけでは困窮して生活のためかサーカス団での仕事も兼務したようです

 

やがて

1914年に第一次世界大戦で渡英中の彼は、敵対するドイツ人だったために捕虜となってしまいランカスターとマン島に収容されてしまいます。その際に負傷兵の兵士たちに快復を促すためリハビリのようなものに携わり、当時マン島にいた猫が伸びやかに伸びをする姿などからヒントを得、伸ばしながら筋肉を使ったり作ったりするのでは?と考えるに至ったようです。そして

【コントロロジー】

という、前回第3回の投稿でも触れたメソッドが生まれます。病院のベッドにバネなどを取り付けてリフォーマーの原型も制作し、チームメンバーの体力改善を促して体調管理を行いました。ジョセフが担当した捕虜のグループでは病気が蔓延した際にも免疫が運動により上がっていたためか、皆が元気だったそうなんです

 

その後にドイツへ帰国

ナチス政策に反してでしょうか、アメリカNYへ1926年に移住。ニューヨークにスタジオを開設して、ダンサーやアスリートを中心にピラティスが考案したエクササイズを教えて行きました。特に著名なダンサーや歌手が彼のメソッドを取り入れてパフォーマンス向上に役立てたらしく、後の愛弟子達もこのスタジオでメソッドを学ぶ事になりました

 

しかしこのスタジオは1966年に火災に。ジョセフはスタジオ内の器具など大切なものを運び出したりする時(結果的には床が抜けてしまい、途中で救助を待つ事に…自身が何かに掴まり待っていたというサスケよろしくな筋肉エピソードも!)のせいでしょうか、気管支や肺から健康は悪化してしまったのか翌年の1967年に87歳で亡くなります。その後は妻のクララがスタジオ10年間守ったそうです

 

今回は

・ピラティスの歴史

ピラティス🟰ジョセフピラティスの歴史

という事を聞き見し学んだ事や、考察に基づく内容の範囲でお伝えしてみました

いかがでしたか

ほんの少しでもこのブログからピラティスを身近に感じていただけたら嬉しいです🍃

 

 

皆さまがご存知の彼の興味深いエピソードなどありましたから、是非伺いたいので教えてくださいね

 

次回の第5回は

・ピラティスの発展

について記していきたいと思います

 

それでは今回はこの辺で

最後までお読みくださりありがとうございました

 

 

Salut!

 

Noriko🌿

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